備中高松城水攻め備中高松城水攻め

日本三大水攻めのひとつ 備中高松城水攻め

 備中高松城にまつわる逸話は、羽柴(豊臣)秀吉の水攻めという奇策や清水宗治公の捨身精神などが人々の⼼を捉え、400年以上も美談として継承され、全国的な知名度を有します。

 特に、高松城水攻めは、秀吉が天下人への道に大きく踏み出したターニングポイントとして知られ、武州忍城(埼⽟県⾏⽥市)と紀州太⽥城(和歌⼭市)とともに⽇本三⼤⽔攻めと称されます。加えて、播磨三⽊城(兵庫県三木市)、因幡鳥取城(鳥取市)とともに、秀吉が城攻めの名人として名をはせた戦として取り上げら れることも多々あります。

 また、城主・清⽔宗治公が⾃刃によって⽑利⽒への忠誠と家中の助命を果たしたことは、当地を始め各地に広く語り継がれ、国指定史跡である⾼松城址公園では6⽉第⼀⽇曜⽇に遺徳を偲ぶ「宗治祭」が⾏われています。

両軍、相⾒える

 戦国乱世のうち続く天正初期、「⽑利両川(⽑利・吉川・⼩早川)体制」を構築し中国地⽅制覇に向け勢⼒を拡⼤した⽑利⽒と、「天下布武」に邁進する織⽥信⻑との全⾯衝突は避けられない情勢となっていました。

 ⽑利征伐という信⻑の命を受けた中国攻めの総⼤将・⽻柴(豊⾂)秀吉は、播磨から⼭陰へと侵攻し、備前の宇喜多直家の寝返りを利⽤して⼭陽道に兵を進めます。対する⽑利⽒は、秀吉の侵攻を防ぐため、最前線となる備前・備中国境に「境目七城(宮路⼭・冠⼭・⾼松・加茂・⽇幡・庭瀬・松島)」を配し、同9年(1581)11月、小早川隆景は三原城に境目七城の城主を招き、労をねぎらい馳走の後に一振りずつの太刀を与えて忠誠を誓わせ奮戦を促しました。

 ついに秀吉軍と⽑利軍の雌雄を決する時がおとずれたのです。

高松城本丸跡

備中高松城、水攻めに

 天正10年(1582)5⽉、秀吉率いる3万の軍勢が、庭瀬を除いた5城の落城によって孤⽴した⾼松城を取り囲みました。「備中⾼松城の戦」の始まりです。秀吉はまず、龍王⼭、現在の最上稲荷境内にある⼀の丸に本陣を構えました。一の丸から高松城まで約2㎞で、眺望に最適の地です。しかし、備中高松城は四面を深⽥に囲まれた要害地形の城であり、城主・清⽔宗治公以下城兵5千は命を懸けての防戦となり、容易には落ちませんでした。⽑利総軍の出陣を予想した秀吉は、急遽、安⼟城の信⻑へ出陣を要請したのです。

 また、秀吉は、黒⽥官兵衛の献策をいれて秘策の「⽔攻め」に取りかかりました。城の近くを流れる⾜守川の東・蛙ヶ⿐から全⻑約3km、⾼さ約7mの堤防を築いて、⽔を引き込もうというのです。本陣を⽯井⼭に移し、周囲に⼤号令を発し築堤を急ぐ秀吉軍。折しも梅⾬どき、築堤を12⽇で完成させ、⾜守川の堰を切った⽔はまたたくまに⽔位を増し、⾼松城は湖上に浮かぶ孤城となりました。築堤完成2⽇後の21 ⽇、⽑利輝元を⼤将に、吉川元春・⼩早川隆景の⽑利の援軍4万が到着。陣地を挟んだ湖⽔を前に、両軍とも為すすべも無く睨み合いが続き、戦況は膠着状態。⼀⽅、⽑利の外交僧である安国寺恵瓊を介した講和も、領⼟割譲と城主宗治の死を堅く主張する秀吉との間は埋まらず、和議には⾄りませんでした。

蛙ヶ鼻堰堤跡

太閤岩

ごうやぶ遺跡

本能寺の変と清水宗治公切腹

 6月2日未明、戦況を大きく左右する事態が京都で起こります。「本能寺の変」。秀吉の出陣要請により安土城を出立した織田信長は、途中、本能寺に宿泊していました。そこに、友軍として中国征伐の命を受けた明智光秀が、丹波亀山城(京都府亀岡市)から引き返し信長を急襲しました。光秀が反旗を翻した理由は「信長への怨恨説」「覇権争奪説」「朝廷黒幕説」など諸説ありますが、光秀軍に比べわずかの守勢しか持たなかった信長は、部屋に火を放ち自刃したのです。

 翌日、この知らせが秀吉のもとに届きました。秀吉は、信長の横死を厳重に秘した上で、領土割譲の条件を緩和し、「城主宗治の切腹をもって城兵他5千人の命は助ける」として毛利氏との和議成立を急ぎました。これを聞いた宗治公は、6月4日巳の刻(午前10時)、城より小舟で漕ぎだして、両軍勢7万5千の兵が息を殺して見守るなか、誓願寺の曲舞を謡い舞い、辞世を遺し、毛利氏への義理を貫き城内五千の命と引き替えに、兄の月清入道とともに見事に腹を掻き切って果てたのです。

 「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」

 清水宗治公、享年47歳。秀吉は、その振る舞いの見事さに「宗治は武士の鑑である」と嘆賞し、手厚く葬り、石塔を建てて冥福を祈らせました。

 宗治公の切腹を見届けた秀吉は、毛利方に悟られぬよう、すぐさま軍をまとめ、6日には馬を返してひた走り、8日には姫路へと駆け戻りました。その後、明石、兵庫、尼崎、富田と移動しながら畿内周辺の兵をまとめて京に迫り、13日天王山の山崎の戦いを迎えました。「中国大返し」と言われる電光石火の離れ業です。大軍の驚異の大移動を成した秀吉は、この戦いで明智光秀を破り、天下取りへの第一歩を踏みだしました。

※備中高松城水攻めや中国大返しの詳細については諸説あります。

清水宗治公首塚

高松城址周辺みどころマップ高松城址周辺みどころマップ
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 妙玄寺を含む高松城址一帯には、高松城水攻めに関連する史跡のほかにも、みどころがたくさんあります。徒歩やレンタサイクルを利⽤して巡ってみては、いかがでしょう。