清水宗治公自刃の地にたつ、備中高松城水攻めゆかりの寺
慶長5年(1600)、高松知行所の領主・花房職之公により花房家の菩提寺として建立された高松山妙玄寺(こうしょうざんみょうげんじ)は、備中高松城水攻めの名残をとどめる寺院です。
天正10年(1582)に起こった備中高松城の戦。羽柴(豊臣)秀吉の奇策「水攻め」とともに、城主・清水宗治公が主君毛利氏への忠義と、城下の兵と家族五千の助命の為に潔く切腹し、敵将・秀吉が「宗治は武士の鑑である」と絶賛したという物語性の高い戦です。当地は、宗治公が自らを犠牲にして自刃した場所と伝わります。
秀吉陣営に属した宇喜多家の重臣であった職之公は、領主として治めるこの地に寺院を建立した際に、宗治公の忠勇義烈に敬意を表し「高松院殿清鏡宗心大居士」と記した位牌を祀りました。以来、歴代住職により供養がなされ、昭和38年(1963)には供養塔が建立されました。
地元にはもちろん歴史愛好家などにも宗治公の人気は高く、毎年6月第一日曜日には、高松城本丸跡にて往時を偲ぶ「宗治祭」が盛大に執行され、遠近から数多くの方々が集まり供養の祈りを捧げています。
妙玄寺は、「水攻寺」とも称されることから、観光客も数多く訪れる名刹です。
高松山妙玄寺
清水宗治公供養塔
妙玄寺と最上稲荷(最上稲荷山妙教寺)
豊臣秀吉の天下人へのターニングポイントといわれる「備中高松城の戦」ですが、秀吉はまず龍王山に本陣を構えました。現在の最上稲荷(日本三大稲荷、正式名称は最上稲荷山妙教寺)の境内で、現在は日蓮聖人像が立つ秀吉本陣(一の丸)です。備中高松城まで約2kmの位置にあり、眺望に最適な場所でした。しかし、高松城は四面深田に囲まれた要害地形の城であり、守将・清水宗治公以下城兵による防戦はすさまじく、秀吉は攻めあぐんだ末に黒田官兵衛の献策により「水攻め」を決断。本陣を石井山に移して築堤し水攻めを敢行し、地の利と時の運を得てこの戦を制したのでした。
後の領主・花房職之公は熱心な日蓮宗信者だったことから、領内の寺院を日蓮宗に改宗するとともに、戦により荒廃した最上稲荷山妙教寺の再興に尽力しました。
妙玄寺は、花房家の導きから妙教寺との繋がりが深く、妙教寺住職の兼務寺でもあり、妙玄寺に正住職がある時も、妙教寺住職は管理を行うことが原則でした。また、かつて備中高松城の守護神として祀られていた「北辰妙見大菩薩」が、職之公により妙玄寺に移され、現在は最上稲荷の妙見堂に祭祀されているほか、昭和25年(1950)の山火事で焼失した最上稲荷の仁王門は、明治時代に妙玄寺から移行したものでした。
このような関係から、妙玄寺は現在、「最上稲荷高松城支院」と称し、杉本泰潤住職は最上稲荷の院代を務めています。
秀吉本陣(一の丸)
北辰妙見大菩薩
旧仁王門